心の庭をながめて -  WS「心の庭を歩こう」参加作品

心の庭をながめて - WS「心の庭を歩こう」参加作品

先日、ANONYMでは「心の庭を歩こう - コーヒー片手に自分と向き合うライティングワークショップ」を開催しました。このワークショップで参加者のみなさんが執筆された作品をご紹介します。今回は、鈴木恭子さんによるエッセイ「心の庭を眺めて」です。

心の庭をながめて

鈴木恭子

 

小さいお寺の広間から広縁の向こうに初夏の和風庭園がある。

手前の芝生を囲むように木が植えられていて、あちこちで草が勝手に伸びてきている、手入れ前の程よく自然な姿。

 

秋頃には葉の色も変わって、空の色も少し鮮やかで、違う風景が見えるはず。

まだ雑草抜いてないな、雪が積もったら山っぽいな、春先には梅か?など、庭や植物のある風景を見ているときは頭の隅で別の姿を意識している。

 

そんな、お寺の庭が見える中で「自分の心の中にある庭」の話を聞いた。

 

どこかで見た風景ではなく、子供のころから心の中だけにある庭の風景。

木々やベンチ、足元の草などの形や質感はリアルで、その風景はずっと変わらず、目をつぶると存在する自分だけの庭があるという。

実際に見たことがない、ずっと変わらない、心の中の庭ってどんな感じだろうか。

 

「庭」という単語で思い浮かべる風景はある。

その思い浮かべる風景はずっと変わらないが、祖父が実家の庭で遊ぶ私を撮った写真に影響されている。

その写真から思い出す昔の実家の庭にあった芝生の感じ、天気のいい日の庭の光と、温度感などの私の体験が作った懐かしい記憶の風景。

五感が作ったイメージで、見たことがなく、知らない風景ではない。

 

「記憶の風景ではなく、ずっと変わらずに心の中にある庭かぁ・・・」と、目の前のガラス戸の向こうの庭を眺めた。

 

庭の手前の芝生を池に見立てて、丸く刈り込まれた植木は岩や島、いま座っている広間は池の脇の楼閣かなにかに見立てられるなぁと「枯山水」風に庭を眺めて、ふと、「阿弥陀経」に描かれる極楽浄土を思い出した。

 

極楽浄土の垣根や建物、樹々は金や銀、ラピスラズリ、水晶で七重に作られている。

その浄土の中には七宝の池がある。

 

底に金砂が敷きつめられたその池は、八つの功徳がある清浄な水で満たされている。池の四方には、金、銀、ラピスラズリ、水晶、シャコ貝、サンゴ、メノウの七つの宝で作られた楼閣がある。

池の中には蓮の花があって、その大きさは車輪のように大きい。

黄色い蓮は黄色い光を、白は白く、赤は赤、青は青と、光を放っており、あたりは芳しい香りが漂っている。

常に美しい音楽が空に鳴り響いていて、昼夜六時には空から美しい良い香りの花が降り、美しい鳥たちが仏教の教えをさえずる。

 

浄土のイメージはお釈迦さまがご健在だった当時の、「誰もが憧れる超絶景」と聞いたことがあるが、私はその超絶景イメージを目の前のお寺の庭園に重ねている。

 

実際の風景ではない、ずっと変わらない、「心の庭」って浄土みたいな感じだろうか。

私がイメージしている浄土はオリジナルではないけれど、池と蓮がある清浄な光に包まれた庭園として、なんとなく心の中に存在している。

自分だけの風景とハッキリ意識する「心の庭」。

書物や誰かの絵、写真や昔見た風景からぼんやりと思い描く「心の庭」。

 

子供の頃の記憶から思い描く庭も、浄土のイメージも、わたしの「心の庭」。

 

どの「心の庭」も、心をおちつけて、何を臆することもなく、自分の心と身体がひとかたまりで静かに安心して居られる清浄で美しい場所。

 

それを意識しているか、していないか、ハッキリか、ぼんやりか、知らない場所か、知っている場所か、ひとつか、たくさんあるか。

誰もが、その人それぞれの「心の庭」を持っているのかもしれない。

 


イベントレポートもあわせてどうぞ

ワークショップ「心の庭を歩こう」当日の様子を写真とともに振り返るレポート記事を公開しています。こちらも、ぜひご覧ください。

ワークショップイベント「心の庭を歩こう」レポートhttps://anonym.kyoto/blogs/journal/workshop-report-20240629

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