雲にのる
倉田タカシ
TOKIアンソロジー第2作。昼休みのオフィスで、同僚たちは「雲に乗る」という秘密の遊びに興じていた。白昼夢を表現したブレンド「12:34 day dreaming」から着想を得て綴られた、ささやかで贅沢な冒険の手順。
「雲に乗ってました?」
そうたずねる同僚と笑みをかわして、
「乗ってました。御殿場まで行ってきました」
「なにしました?」
「時間なかったから、PAでうどん食べて帰ってきました」
昼休み、よくそんなやりとりをする。この会議室と休憩室を兼ねた大部屋から見える空がとにかくきれいで、そこによく最高の雲が浮かんでいるから。
さほど高い階ではないのだけれど、窓のある方角にたまたま建物の切れ間があって、視界の両脇にそびえるビルのおかげでいっそう空も高く感じられ、劇的な風景が生まれている。
この空の劇場を、日によっては小さなちぎれ雲がしずしずと横切っていく。
お乗りなさい、と雲がいう。
乗る。
こうして、みんな雲の乗客になる。
この空と雲があるおかげで、「もう成果主義を卒業したい」「森でどんぐり拾って暮らしたいね」「それはそれで成果主義の匂いがするよ」などと同僚どうしでいたわりあいながら、この職場での勤めを続けられているのだと思う。
みんな、時間が許せばこの部屋でぼんやりと空を見上げている。もうすこし正確にいえば、わたしが誰よりもいちばん頻繁に、ぼんやりと空を見上げている。なにを見てるんですかと訊かれて雲に乗ってますと答えたのもわたしだし、みなさんも雲に乗るといいですよ、ともいった。
結果、みんな休憩室にいくときに「ちょっと雲に乗ってきます」などというようになって、ささやかながらこの職場独自のカルチャーを生み出したという自負がある。
ひとつ、すこし残念なのは、わたしの頭の中で雲に乗るという体験のイメージがどんどん育って複雑になりすぎてしまい、ほかの人と分かち合うのが難しくなってしまったこと。みんなで同じころに始めた遊び、たとえばダーツなどを、ひとりだけ店に通いつめて練習し、いつのまにか誰もかなわなくなってしまったというのに似ている。
わたしの想像のなかでとくに膨らんだのは、雲に乗るまでのプロセスの部分だった。雲を眺めながらも、乗っているところのを想像しているのではなくて、そこにいたるまでの出来事を延々と考えてしまう。思えば、遊園地で遊ぶことよりも、どうやって遊園地まで行くかを想像するほうが楽しい子どもだった。
「現実逃避は、総合芸術なんですよ」
そういったのは、大学時代の恩師だ。
あまりにもいいかげんな発言で、今でも思い出すたび笑ってしまう。けれど、歳月をへて、自分が心の奥でこの言葉をしだいに真に受けるようになってきたような気もするのだった。
さて、雲に乗る手順は、つぎの三つからなっている。
1. 現実を出る
2. 雲のりばへ行く
3. 雲におもしろい話をする
つまり、飛行機に乗るときとだいたい同じ。家を出る、空港へ行く、搭乗手続きをする、にそれぞれ対応しているといっていい。どちらもひとつめが特に大切だ。旅はまず、自分のいるところから出ていかなければ始まらない。
詳しく説明していこう。まず、現実を出るところから。
上手な人ならば、自動改札を通るみたいに歩調も変えず、すたすたと現実から出ていくことができるけれど、ふつうはそうはいかない。でも、べつに修行が必要なほどではない。現実のなかにいくつもある、小さなほころびをそっとつまんで引っぱればいい。たとえば、窓にだけ映るうさぎの行列に、ピーナッツの小袋を投げてあげる。うさぎたちは二本足で歩いていて、よくみれば着ぐるみだとわかる。この3体の着ぐるみたちには、それぞれ、亀の群れ、海老の群れ、そしてペンギンの兄弟が入っていて、みんな組体操をやりながら歩いているようなものだから動作はなかなかぎこちない。みんなピーナッツが大好きだけれど、投げてこられたのを手で受け取るのはむずかしいし、床に落ちたのをかがんで拾うのはさらにむずかしい。そのことに気づいたわたしは申し訳なく思いながら歩み寄って、ピーナッツの小袋を拾い、亀の入ったうさぎに差し出す――ほら、現実から出ることができた。
こんな方法もある。だれかがテーブルに忘れていったサンドイッチの包装が、空調の風をうけて小さく震えているのをよく観察する。すると、一億年ほどがたちまち過ぎ去って、震えているのがわたしのまぶただと気づく。むしろ、わたしのまぶたが世界を震えさせている。止めたほうがいいな、と思う。このときはもう現実の外にいる。
大切なのは、自分が現実の外に出てきたことを忘れずにいること。これを失念してしまうと税金を二重に払わされるなど面倒なことになる。
つぎに、雲のりばへ行く。
雲に乗るという体験のなかで、のりばへ向かう過程もとても楽しい。それ自体がひとつの小さな旅だといってもいい。
空港へいくなら大抵は電車を使うけれど、現実の外には電車がない……ないわけではないけれど、人が乗ろうとすると靴下に変わるものが多いので、時間はかかるけれど歩いていく。
ここで、毎回かならず、あることに気づく。
雲のりばがどこにあるのか、まるで思い出せないということに。
とはいえ、これはいつものことだから心配はいらない。現実の外ではいろんなことを忘れてしまう。ただ、わたしのニーズにまあまあ寄り添ってくれる場所でもあるから、待っていればすぐに「分量外のバター」と名のる曖昧なボリュームの存在がやってきて、雲のりばまで案内してくれる。
現実の外は温室のようにあたたかく、果物のようなさわやかな香りがただよっている。雑木林のいちばんよいところがずっと続いているような景色で、正午の太陽が木漏れ日の模様を足元にひろげて、先へ先へとわたしをいざなう。いつも一瞬、ほんの一瞬だけ、ここに永遠にとどまっていたいという気持ちがわきあがるけれど、わたしはこれから雲にのるのだ、午後には午後の業務をするのだ、という強い気持ちが勝って、前に進むことができる。それができる自分を誇りに思う。分量外のバターも、曖昧に大きさを変えながら「あと少しで着きますよ」とはげましてくれる。量的なことについては当てにならないので、ほんとうにあと少しであることはめったにない。とはいえ、気づけばわたしは雲のりばのゲートをくぐっている。
ここで最後の手順、雲におもしろい話をする、がひかえている。
搭乗口からは、空に浮かぶ準備をしている雲の姿がみえる。灰色をまとい、ずっしりと水気をふくんで平たくなっている。この雲におもしろい話をすることが、いってみれば、運賃の支払いと雲に乗る資格の証明をかねている。
でも、そんなに気負わなくても大丈夫。雲はけっきょく人を乗せたくてしかたがないのだし、人間のする話ならなんでも楽しんでくれるのだ。
わたしは、たとえばこんな話をする。ふしぎと天気の話になっていることが多いように思う。
――わたしの実家では、いま、12匹の犬と11羽のチャボを飼ってるんです。最近はなかなか帰省できてないけれど、帰ると、かならずこの犬とチャボたちが出迎えてくれるんですよ。犬たちが道の端に一列に並んで、足をぐっと踏ん張って立っていて、その背中に、それぞれチャボが一羽ずつ乗ってるんです。チャボのほうも、胸を張って、いい姿勢です。わたしは全員に「ありがとう」「ただいま」と声をかけて、犬たちの頭をなでながら前を通っていって、玄関に入ります。もうお気づきかと思いますけど、いちばん最後に立っている一匹の犬だけ、背中にチャボが乗っていないんです。でも、そこにいつも、目に見えないなにかが乗ってるのがわかるんです。犬の背中の毛がちょっとへこんでいるんですね。わたしは、その見えないなにかにも、また会えたね、と声をかけます。そうして、玄関で靴を脱いでいると、いつも小さじ一杯ほどの雨が降って、止むんです。
雲はわたしの話を聞きながら満足げにすこしずつふくらんでいき、灰色のなかにまぶしい白を灯して、輪郭をふわふわとほぐしていく。
こうして、飛行の準備がととのった。
お乗りなさい、と雲がいう。
乗る。
想像のなかでわたしがPAでうどんだけ食べて戻ってきたのは、つまり、乗るまでの過程が長すぎて、昼休みの時間を大半使い切ってしまうからなのだった。本末転倒のようだけれど、わたしとしては不満はない。
ところで、わたしにはいま、小さなたくらみがある。わたしだけでなく、やっぱり同僚たちだって、それぞれの「雲への乗りかた」を心のなかで育てているはずなのだ。みんなでそれを披露しあったらきっと楽しいだろう。現実の外への扉がひらくようなひとときを、いつか持てたらいいなと思う。
倉田タカシ(くらた・たかし)
SF作家。近未来を舞台にした小説を発表する一方、ナンセンスな散文詩やタイポグラフィ作品も好んで書く。うなぎ絶滅後の世界をユーモラスに描いた連作短編集『うなぎばか』で2018年度の細谷正充賞を受賞。最新刊は短編集『あなたは月面に倒れている』、ほかに高山羽根子・酉島伝法との共著による架空の旅行記文芸『旅書簡集 ゆきあってしあさって』など。
(Blueskyアカウント)https://bsky.app/profile/deadpop.bsky.social
物語の余韻を、ご自宅で。
この作品は、TOKI coffeeのブレンド「12:34 day dreaming」の時刻からインスピレーションを得て書き下ろされました。ご自宅でコーヒーを飲みながら、物語の世界観にもっと浸ってみませんか?
12:34 day dreaming - dripbag
【FLAVOR】アロエベラ、ざくろの甘酸味、さくらんぼ、カラフルなキャンディ
【ROAST】中深煎り
【SCENE】ランチ後のリフレッシュに、または午後のティータイムに。遊び心あふれるフレーバーで、退屈なひとときを特別な瞬間に変えましょう。想像力をくすぐるこのブレンドは、あなたを小さな冒険へと連れ出し、きらきらと活力に満ちた午後へと導きます。
通常価格
¥300 JPY
通常価格
セール価格
¥300 JPY
単価
/
あたり