答えは自分が知っている

勝山海百合

TOKIアンソロジー第6作。お昼前の静かな時間を表現したブレンド「11:32 minute miracle」から着想を得た物語。喫茶店での会話、映画、そして不思議な白い粉。ある女性の穏やかな一日に、小さな謎が紛れ込む。

 クリニックの会計窓口で支払いを済ませて、肩に掛けた帆布のトートバッグに書類を入れて外に出る。明け方の雨のせいで舗道はまだ濡れていたけれど、雲間からは青空が覗いていた。

 信号を待っているときに、街路樹に指先ほどの赤い実が成っているのに気がつき、これはなんの木だったかと目で情報を探すと、〈花水木(ハナミズキ)〉と記された白い樹脂の板が幹に巻き付けられていた。花水木にはこんな実が成るのか! と新鮮に驚いた。春先の白やピンクの花は知っていたのだが……信号が青に変わり、歩き出す。空腹でも足は軽い。わたしは駅の近くの喫茶店に向かっていた。今ならまだモーニングサービスの時間だと思うと心が弾んだ。コーヒーを注文すると、トーストとゆで玉子がついてくる。キャベツの千切りとツナのオイル漬けを混ぜ合せたものを薄い食パンに挟んだツナサンドも捨てがたい……と考えながら喫茶アテナの前に立つ。自動ドアが開いた。

 アテナは三階建てビルの一階にある。鏝波のある白い外壁、ドアの上には朱色の瓦の載った庇、唐草の鉄枠がはまった窓。アテナは開店して五年ほどらしいが、何十年も営業しているクラッシックな喫茶店風で、それもそのはず、元は長く営業していた喫茶店だったそうだ。入り口に一対のやきもののシーサーが鎮座しているが、これも引き継いだ……のかはまだ尋ねたことはない。

 私は空いていた二人掛けの席に腰を下ろした。窓に近い右側のテーブルでは若い女性が文庫本を読んでいた。緑と赤のタータンチェックのスカートに深緑のカーディガンが秋らしい。テーブルに置かれたメニューを手に取り、水の入ったコップを持った女性がやってくるまでの三十秒ほどのあいだ、迷いに迷ってツナサンドとコーヒーを注文する。

 ひどくお腹が空いていた。腸の内視鏡検査のために下剤(大量の液体!)を飲んでお腹を空っぽにしていたし、腸内をカメラで見た結果、大腸がんの疑いも晴れた。安心したせいでお腹の虫も騒いでいた。

 今日の勤めは休んだし、当面の憂いも晴れたのでどこかに遊びに行こうと思い、予告編を見て気になっていた映画はもう公開されたかとスマホで検索していると、温かいコーヒーと、トーストされたツナサンドがテーブルの上に置かれた。小さなウエットティッシュでそそくさと指先を清め、マスクを外してパンを摘まむ。小ぶりの角パンを薄くスライスした二枚で挟み、三角に切ったサンドウィッチは、想像がつく味なのに予想を超えて美味しい、不思議……と思っているうちに二切れとも目の前から消えていた。追加でドーナツを注文しようかと思っていると、ドアが開いて、灰色の毛糸の帽子に紫色のフーディーを着た若い女性が隣のテーブルの空いている椅子に「おはよう」と座った。「待った?」

「早く来て、ゆっくりしてたの。午前中からコーヒー飲んで、本読んで、こんなに優雅でいいのかなって思ってた。来月からまた働くから、こんなこと当分無理」

「そうそう、今のうち」

「体調はどう? 順調?」

「こっちはね。あ、トマトジュースください」

 耳に入ってくる会話によると、二人は同い年の友人で、あとから来たほうは妊娠中らしい。ゆったりしたジャージのパンツをはいているのでお腹のふくらみはわからないが、帽子からこぼれる茶色い髪にはブロンドのハイライトがきれいに入っているし、睫毛も上向きで長い。

「結婚もするし子どもも一緒に育てるって言ってるくせに、彼氏がぜんぜん結婚のことやらなくてさ。親に挨拶したり、住むとこ決めたり、結婚式場の予約とか、しないといけないこといっぱいあるのに。しかも女がいて、こっちのこと知ってるのに彼氏にちょっかい出してくるの」

「あんたがいて、妊娠してることも知ってて?」

「そう! どんな気なんだろ、むかつく」

 ニット帽は運ばれてきたトマトジュースのグラスにストローを挿し、ちゅう……と吸って一息つくと、それでさ、と声を潜めた。

「あの女にちょっと怖い思いをさせたいんだ。違法薬物とか大麻とか、女のバッグに入れて、警察にチクって、逮捕させるの」

「ダメだよ」と文庫本は言った。速かった。

「そういうのって、徹底的に調べられるから。その薬物がどこで製造されて、どんなルートから流れて来たかもわかるし、袋の指紋とかも調べるから、あんたの指紋が出てきたら……前科がないなら大丈夫だと思うけど……あんたが疑われて調べられる」

「え……そうなんだ」

 ニット帽は明らかに怯んだ。『科捜研の女』の展開みたいだと感心したわたしは、思わず頷きそうになったが、ヨソさんのことなので聞いていないふりをした。

「そうだよ。懲らしめるなら別の方法を考えたほうがいいよ。というか、可愛い赤ちゃん産んでさ、家族写真とかSNSにアップしたらいいよー、誰だか知らないけど、醒めるって」

「かな?」

「早く婚姻届けを出して、妻の座に納まっちゃえ。妻なら女に損害賠償請求できる」

「そっか……そうだね。でもすごい。弁護士になったら?」

「まさか! でも法律のことは知ってたほうがいいよ、役に立つもん」

「だよねー」

 ウォン・カーウァイの古い映画がリバイバル上映されているのを見つけたわたしは、頷く代わりに、スマホを指で叩いて映画館の席を予約した。

 隣の二人の話題は、お腹が目立つ前にウェディングフォトを撮りたい、披露宴は子どもが生れてからでいい、友達の誰それの結婚披露宴の料理に味がしなかった……と比較的平穏なものに移り変わっていった。

 トイレを借りて外に出ると、文庫本とすれ違った。さっき読んでいた本はなんだったのだろうと思った。
 

『ブエノスアイレス』を観て、デパートの地下でローストビーフや野菜のグラッセ、ピクルスなどのオードブルっぽい詰め合わせを買い、香水売り場でバニラと熟れたチェリーの香りを試し、香りのついたムエットをトートバッグの内ポケットに入れて帰宅した。レスリー・チャン、その存在を知ったときにはもうこの世にはいなかった俳優の、生き生きした姿を思い出しながらシャワーを浴びて、濡れた髪のまま冷蔵庫からシードルの瓶を取り出した。グラスにシードルを注いで、ソファに座ってリモコンを手に取る。テレビをつけ、録画してあった旅行番組の再生を始める。日本の小説家が、ヨーロッパの地方都市を鉄道で移動する番組……のはず。買ってきたオードブルのパッケージを開けた。ぬいぐるみの熊を相手に、小さく乾杯をする。

 スマホがバッグに入ったままなことを思い出し、充電しなくてはとトートバッグの中に手を入れた。店頭では甘すぎると感じた香水が、少し柔らかく、焦げたような香りに変化していた。指先がムエットとスマホのあいだにあるものに触れた。なんだっけ? と取り出すと小さなジッパー付きの袋だった。中に白い粉が入っている。塩? それにしては白いし粉っぽい。

 そっと摘まみ上げた小袋を、もう片方の手で引き抜いたティッシュペーパーでそっと包んでテーブルに置く。今朝、隣のテーブルで話していたアレだろうかと思いながら、警察が踏み込んできたらどうしようと気が気ではなかった。まあ、ノックくらいはするだろうけども。スマホを手に取ると未読のメッセージが何通かあり、その中から友達のウズのものを開く。内視鏡検査で異常なしだったと報告したものに、「良かったね! こんど食物繊維の多いものを食べに行こう」と返信してきたものだ。(検査前は食物繊維の多いものは控えないといけなかった)

〈バッグに白い粉入ってた。なんだろ?〉

 画像を付けて送るとすぐに反応があった。

〈塩と見た 粉っぽい塩〉

〈舐めたりしないで塩とわかる方法ってある?〉

〈ダウジング〉

 たは! 声を出して笑った。まえに、友達の家に集まって遊んだ時、パイナップルのクリームが入ったチョコレートを食べたくなくて、ペンダントを使ってダウジングをしたことがあったのだ。手にペンダントの鎖を持ち、「これはチョコレートか」というような、すでに答えがわかっている質問をすると、鎖の先のチャームが振り子のように動く。このサインを確かめてから小さなチョコレートを一つ紙皿に取り、その上、中空に鎖を垂らし「これはパイナップル味か?」と念じるのだ。すると「はい」か「いいえ」の動きをする。その日、パイナップル味は全部当てることができた。四つのうち二つがパイナップルだった。みんなが感心したが、ウズはわたしの手首を掴んでこう言った。

「こうしているとチェーンが動かない、つまり自分で判断して動かしているんだよ。答えは自分が知っている」

 わたしはあれから一度もダウジングをしていないが、そのことを思い出した途端、これは塩だと直観した。小袋の白いふくらみを指で圧すと、感触は塩としか思えなかった。

〈塩。ダウジングするまでもなく〉

 ウズに通話していいかと尋ねて、通話に切り替えた。テレビの音声をミュートし、今朝の喫茶店で見かけた二人のことを話すと、ウズは「ワタクシの推理では」と話し出した。

——ニット帽は、文庫本が浮気相手と疑ったんだよ。でも、話しているうちに違うとわかったんだと思う。それで塩を君のバッグに入れ……ファスナーのない、トートバッグだよね?

 そういうことか! とわたしは息を吐いた。

——友人を浮気相手と疑ったことが恥ずかしくて、証拠品を手元に置きたくなかった……んだと思う。

 シャワーを浴びるまえに外した腕時計がテーブルの上にあった。指環とネックレスも。通話しながら、細いゴールドの鎖に指環を通し、持ち上げる。ニット帽のお腹の子どもの性別を当ててみようと思ったが、正解の知りようはないので止めた。

「ところで、食物繊維の多い食べ物ってなに?」

——松茸。

勝山海百合(かつやま・うみゆり)

岩手県出身。「さざなみの国」で第二十一回日本ファンタジーノベル大賞受賞、「あれは真珠というものかしら」で第一回かぐやSFコンテスト大賞受賞。
著書『さざなみの国』『狂書伝』『厨師、怪しい鍋と旅をする』など、翻訳にS・チョウイー・ルウ「沈黙のねうち」(『紙魚の手帖』vol.02)、ユキミ・オガワ「さいはての美術館」(『SFマガジン』2024年四月号)など。
公式ブログ:https://umiyulilium.hatenablog.com/
X:https://x.com/UmiyuriK

物語の余韻を、ご自宅で。

この作品は、TOKI herb teaのブレンド「11:32 minite miracle」の時刻からインスピレーションを得て書き下ろされました。ハーブティーを飲みながら、物語の世界観にもっと浸ってみませんか?

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