鳩影
蜂本みさ
TOKIアンソロジー第1作。澄み渡る朝の空気を表現したブレンド「07:13 sunrise serenade」にインスパイアされた作品。ある朝、東向きの窓辺で見つけた小さな影と、それを見守る「わたし」の不思議な交感を描く。
夜更かしした翌朝の日曜日、あなたは生まれて初めて母の言いつけを破る。東向きの窓のカーテンを開け忘れたのだ。「朝起きたらまずカーテンを開けること。朝日を浴びれば人間、そうおかしなことにはならない」というのが祖母の代から伝わる母の口ぐせで、実家で暮らした時間を一人暮らしの時間が追い越してからもあなたはそれを律儀に守っていて、だけどべつに、言いつけに縛られているわけではない。ただなんとなく習慣として続けていたにすぎない。
けれどその朝、東の窓のカーテンはぴったりと閉じている。朝食をのせたお盆を持って部屋に入った時、あなたはそのことに気づく。コーヒーテーブルのある窓辺はいつもより暗く、しかし布地をつらぬく朝日のおかげでじゅうぶんに明るく、自分のためだけにしつらえられた場所に見える。なによりあなたは、朝の光がカーテンに作りだす影の模様に目を奪われる。枝葉を伸ばした庭の木々が影として映っている。まるで腕いっぱいの抱擁をこちらへ差し出しているみたいだ。
今日はこのままにしておこう、とあなたはお盆を置いて椅子に座る。トーストをひと口かじったところで、カーテンに広がる太い枝の影に何かがわだかまっているのを発見する。それは一羽の小さな鳩だ。正確にいうなら、鳩の影。くちばしを左に向け、丸みのあるお腹をぺたりと枝にくっつけるように休んでいる姿は、祖父が靴箱に飾っていた土製の鳩笛によく似ている。
興味をひかれたあなたは立ち上がり、窓の正面に回って影をよく観察する。やっぱり鳩だ。窓ガラスのすぐ向こうにいると見紛うほどにくっきり映っている。手を伸ばし、背中をそっと撫でてみるけれど、指先にはほこりっぽいカーテンの感触しか返ってこない。ばかばかしい、とあなたはほほえむ。影に触れようとするなんて。
日光にふちどられた鳩の影は、どういうわけか本物の鳩よりずっと自然に見える。今まさにこの瞬間、鳩の形でいることに満ち足りているみたい。道端で出会う鳩たちは人間や天敵を常に警戒しているだろうから、そのせいかもしれない。真新しい朝の光に包まれて鳩の影は呼吸をしている。時々首をかしげたり、胸をふくらませたりする。その仕草が実に鳩らしくて、一瞬一瞬が鳩そのもので、それらすべてを映しとる影の働きぶりがあなたの胸の深いところを打つ。影は風の具合で小枝や葉に重なり、あなたの動作が起こす空気のゆらぎに合わせてカーテンの上をたゆたう。我慢できなくなってあなたはカーテンをそっとめくり、窓の外を見上げる。しかし枝と葉と木洩れ日にまぎれて影の持ち主の姿は見つからない。コーヒーテーブルに戻るとトーストはすっかり冷めている。
次の日からあなたは毎朝わざとカーテンを閉めたままにしておく。といっても、例の東向きの窓だけだ。朝日の当たる枝はお気に入りの場所らしく、鳩は時折やってくる。小鳥たちが枝の間を忙しく飛びまわる日もあって、それはそれでほほえましいけれど、あなたが待ち焦がれているのは鳩の影だけだ。
何日か観察をつづけるうち、影がもっとも鮮明で喜びに満ちている時刻をあなたは発見する。朝七時十三分。カーテンが完璧なスクリーンとして機能するのがその時刻だ。数分も前後すると、影の輪郭は八月のソフトクリームみたいに溶けはじめてしまう。とはいえ、あの時ほどの光景にはなかなか巡りあわない。曇りの日は影もぼやけてしまうし、鳩が来ない日もあるし、風が強くてもだめだ。
あなたは一度、鳩の影が映るカーテンを写真に撮ってSNSに投稿してみたことがある。オリーブの枝をくわえた鳩の絵文字を添えたその画像へのいいねはいつもの半分以下で、親友からは「どこー?」というコメントが飛んできた。自分だけに見えている目の錯覚なのではないか、とあなたは心配になる。でもうまく撮れないのも無理はない。カーテンは閉じていてもゆるやかな曲線を描いているうえ、光や風もベストな状態とはいえないからだ。あなたは写真を投稿するのをあきらめるが、観察はつづける。朝、カーテンに鳩の影がやってくると、今日一日がうまくいくような気がする。反対にいつまでも枝が空っぽな日はその明るさにちょっといらいらし、朝食を終えてもコーヒーテーブルでしばらくぼんやりしてしまう。
数日間も影が現れず、カレンダーにバツ印をつけて落胆していたあなたは、ある朝カーテンに鳩のシルエットを見つけて色めき立つ。日差しは明るく、風はほぼ無風で、めったにないほどいい条件だ。窓の外からは、ぐーぐー、ぽっぽう、と機嫌のよさそうな鳩のさえずりさえ聞こえてくる。あなたはスマホで角度を変えて何枚も写真を撮ったあと、あるアイディアを思いつく。鳩をおどかさないようこっそり庭に出て窓の前に立ち、自分の影と鳩の影のツーショットを撮ったらどうだろう? 部屋のこちら側に影が見えるなら、窓の外からも見えるはずだ。
あなたはサンダルを履き、裏口を出て庭の東側に回る。足音を立てないよう窓をのぞきこむと、鳩の影はまだちゃんとそこにいる。窓ごしのカーテンの表面に、くちばしが右向きの、左右反転した影が映っている。あなたはスマホを構えて立ち位置を調整する。カーテンには頭に寝癖をつけたあなたの写し絵が黒々と伸びている。つむじの具合なのか、いつも頭のてっぺんが右側だけうねるのだ。
影同士をうまくコラージュすると、右肩に鳩がのっているような絵ができあがる。しかし撮影ボタンをタップした途端、羽ばたきが聞こえ、鳩は影もろとも飛び去る。あわててカメラロールを確認するけれど、写真にはあなた一人の影しか映っていない。ほんの一瞬遅かった。誰もいない庭であなたは地団駄を踏んで悔しがる。そんな子どもじみた仕草は、子どもの頃にすらしたことがない。スマホを握りしめて足ずりするあなたの姿はこっけいだ。
その日はいつもと同じように過ぎる。仕事を進め、家事をこなし、ほんの端切れほどの時間に二、三の趣味をつまんであなたはベッドに入る。ちょっと夢中になりすぎているかもしれない、と寝室の天井を見上げて考える。鳩の影がいつのまにか秘密の友達のように思えてしまって。明日の朝目が覚めたら、まっさきにあのカーテンを開けようとあなたは決める。
次に目を開けると、灯りを消した寝室は薄青い闇に沈んでいる。時間はよくわからない。でもカーテンのすき間から差しているのはたぶん月の光だ。あなたは眠気にとらわれたまま窓に目をやり、戸棚の上に鳩の姿をみとめて息を呑む。いやそれは鳩ではなくて、鳩の影だ。あなたが愛してやまない朝七時十三分の影。丸みを帯びたシルエットが頭をふりふり、棚の上を行ったり来たりしている。起き上がろうとしてもしびれ薬を飲んだみたいに動けない。頭だけが目覚め、身体はまだ眠っている。
鳩にそっと手を伸ばす人影に気づいて、あなたはまた別のパニックにおちいる。人影はしゃがんで鳩を安心させ、なだらかな背をやさしく撫でる。鳩は首をあずけて気持ちよさそうだ。あなたはおびえながらも人影に注意深く目を向け、それに厚みがなく、質量がなく、目鼻もないことを発見する。それは文字通りの影で、けれど頭に見おぼえのある寝癖をつけている。毎朝洗面台の鏡で見るのとそっくりだ。
「ずるい」とあなたはやっとのことで声をしぼりだす。
わたしは肩をすくめて見せる。影は声を持たないし、表情を伝えるのも難しいから、身ぶり手ぶりが一番はやい。鳩は棚を飛びたつとわたしの頭に着地し、ふくふくとしたお腹を下にして休む姿勢をとる。頭を揺らさないよう注意しながら、わたしは寝室を歩きまわって鳩に部屋の中を見せてやる。鳩はときどき身を乗りだして物をつつくそぶりをする。
あなたはベッドに寝転んだままそれを眺めている。さっきの「ずるい」を思いだしてわたしは笑いそうになる。肉体と意思をもっていつでも好き勝手にふるまい、わたしを引っぱりまわしているくせに、夜と朝のあわいにひととき許された影の遊びをうらやましがるなんておかしい。
だけど実際、主からときどき抜け出して気ままに動きまわるのは楽しいものだ。ルームツアーを終えるとわたしと鳩はいろんな遊びをする。かくれんぼや追いかけっこをし、部屋の床をただ端から端まで転がったりする。鳩の影はかしこくて、根気強く教えればチェスくらいできそうだ。遊びに飽きるとわたしは鳩をふところに抱き、頭を寄せ合ってキスをする。あなたが一瞬「汚い」という顔をしたので、今度は本当に笑ってしまう。影と影のキスほど清潔なものはこの世に存在しないのに。
わたしが音もなく笑ったのに気づいたのか、あなたは不思議な表情を浮かべる。わたしはこの前笑った日のことを思い出す。幼いあなたはよちよち歩きではじめて路上に出て、地面にうごめく怪しい黒いものを発見し、しかもそれが自分の足元から伸びていることを突き止めたのだ。そして恐ろしさに腰を抜かして転び、重力と衝撃の洗礼をも一どきに受け、影を指さすと影もこちらを指さしたのでいっそう激しく泣いた。同じく生まれて間もないわたしは思わず笑ってしまって、そしたらあなたは泣きやんで、たった今生まれてきたことに気づいたような顔をしたのだった。今みたいに。
いつの間にかあなたは眠っている。青い月の光が去り、影たちの短い休暇が終わる。鳩の影は窓をすり抜けて帰っていく。わたしはベッドに戻り、ふたたびあなたのすべてをなぞりはじめる。あなたがもうすぐ目を覚まし、東の窓のカーテンを開けても、開けなくても。
蜂本みさ(はちもと・みさ)
大阪府生まれ、京都府在住。ブンゲイファイトクラブ(BFC)準優勝、BFC2・BFC5優勝。「ペリカン」(西崎憲 編『kaze no tanbun 夕暮れの草の冠』柏書房)、「冬眠世代」(伴名練 編『新しい世界を生きるための14のSF』早川書房)、「せんねんまんねん」(ウェブマガジンKaguya Planet)、「映し世の民」(『幻想と怪奇 16』新紀元社)など。メインSNS(Mastodon) : @hachimoto8@fedibird.com
物語の余韻を、ご自宅で。
この作品は、TOKI coffeeのブレンド「07:13 sunrise serenade」の時刻からインスピレーションを得て書き下ろされました。ご自宅でコーヒーを飲みながら、物語の世界観にもっと浸ってみませんか?
07:13 sunrise serenade - dripbag
【FLAVOR】白い花のブーケ、紫色の果実、オレンジの穏やかな酸味、余韻にメープルシロップ
【ROAST】中煎り〜中深煎り
【SCENE】朝食とともに、あるいはお仕事前のひとときに。あなたの一日に、輝かしいスタートを約束するブレンド。清々しい酸味と華やかな香りが、眠りから覚めたばかりの感覚を優しく刺激し、今日という日への期待を高めてくれるでしょう。
通常価格
¥300 JPY
通常価格
セール価格
¥300 JPY
単価
/
あたり